ちくさっ子の皆さん、そして地域の皆さんへご自身の経験をもとにされたメッセージをいただきました。
数回にわたり掲載させていただきます。
※瀬戸直人さん、寄稿いただき、ありがとうございました。
夢の途中(一)
小学校では千種の川と山、そして田畑が私の遊び場でした。河で魚を採り、山では山芋採り、家の食費を助けたことも。河や山での遊び場は、今思うと結構激しいもので、ひどい怪我をして親を心配させたことも。
中学校ではバレーボール部に入部し必死にボールを追いかけていました。当時千種中学校バレー部では、練習でパスを校舎の2階まで届かすことが目標でしたが、私は体が小さくてパスが届かず、悔しさで爪が割れているのもお構いなく練習に明け暮れていました。
高校入学後は剣道を部活に選び、負けず嫌いの私は朝練のために他の部員より一時間早く登校して手の豆が潰れても素振りをくり返しました。そのかいあって、2年生の時にはレギュラーとして試合に出場することができました。「練習は決して嘘をつかない!」ほんとうにそうです。入学時三十数名いた部員は最後わずか六名になっていました。
大学進学(関西学院大学)にあたって、両親に授業料以外はすべて自分でなんとかすると豪語した手前、寝る時間を惜しんでアルバイトに明け暮れる毎日でした。
私の両親は教師で、親戚の多くも教職についていました。そのため周囲の者は私も当然教師の道に進むものと思っていました。しかし大学三年の時、自分にとって最もやりがいのある仕事とは何か、真剣に考えました。好きな仕事をして苦しくてもやり遂げること、後悔しない人生を送ること、それが一番大事だと確信、つまりわたしは自分が以前から抱いていた自分の夢の姿、“表現者”・“クリエイター”になろうと決意したのです。
むろん親不孝であることは重々分かっていたのですが、挫折しないでやり遂げることにより、両親も周りの方々もいつか必ず理解してくれると自分に言い聞かせ大学卒業と同時に東京へと向かったのです。
上京し、すぐにチャンスが訪れたのは奇跡に近いといっても過言ではないでしょう。
居酒屋の片隅で飲んでいる時でした。カウンターの隣からどこかで聞いたことのある関西弁の男と、背の高い男が楽しげに酒を酌み交わしているのが目に留まりました。明石家さんまさんと佐藤浩市(俳優)だったのです。
この何とも奇妙な出会いが私の夢を現実のものにしてくれるとは知るよしもありませんでした。
=続く=
宍粟市観光大使
瀬戸 直人(本名:猶原 哲生)
※ 現在、慶應義塾大学経済学部通信教育学士課程在学中